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  • 執筆者の写真Narumi

私の不得意を仕事にしたヒストリー。


私の学生時代に得意だったことは、学校の教科でいうと数学と美術だった。

得意であるとともに好きなことでもあった。


好きなことの中にスポーツも含まれていたが、これに関しては得意なことではなかった。

好きだけど、早々に壁にぶつかったことがスポーツだったと思う。


そんな私が、現在の仕事『トレーナーと管理栄養士』の道を選んだのは高校2年生の頃だった。



ここからはその道につながる前後の経験を綴っていこうと思う。

ごくごくありふれたことで、私にとっては大切な学びであり、なかったことにはしたくない経験である。




私は中学入学とともに軟式テニス部に入部した。

小学生の頃、遊びで硬式テニスをした経験から「やってみよう」と思ったものの、軟式しかない中学校だったためこの選択となった。

中学入学当初の身長は137㎝でバスケットボールとバレーボールは自然に選択肢から消していた。

サッカー部があればまた違う選択をしていたかもしれない。


軟式テニス部に入部し、ラケットとボールに触れることがとても楽しく感じた。

クラスでの帰りのあいさつと同時に教室を出て走り出す、少年漫画のようなはまり込み具合だった。

軟式テニス部が強い学校でもなく、練習量が多いわけでもない部活動は、楽しいだけで日々生活していた。

冬場は学校付近のマラソンコースを走り、1年生の最初はすぐに脇腹が痛くなり最下位だった記憶がある。

それでも人より多く走る生活を続けていると前の方で走れるようになっていた。

技術や戦術、パワー発揮能力など勝ち上がるうえで重要なことはあまり伸びた感じはなかったが、体力だけはついた。


強い学校でやりたいと思った。

もっと軟式テニスが楽しくなると考えていた。


そんな期待を抱いて、高校は実家から通える範囲では軟式テニスの強い学校を選んだ。

入部してすぐ感じたことは『疎外感』だった。

入学した高校は中高一貫校になった学校で、中学からの学生はもちろん、中学時代にある程度勝ち上がった経験のある同級生や先輩の中で萎縮していたのだと思う。

ボールを打ち合うランダでさえ常に萎縮しながらの始まりだった。


高校の部活動は外部のコーチが基本2人来てくださっていた。

1年生の頃はメインで来てくださっているコーチに期待されていないことがひしひしと伝わる扱いを受けていた。

コーチからするとすぐに辞めると思っていた人間が残り、期待していた人間が1年生の間に辞めていった。


2年生になり後輩ができてからは部活動の雰囲気も少し変わったように思う。

夏頃からある程度自分を出せるようになっていった。

私は全体の集合した場所で悪い例として使われることが多かった。

週末に教わったことを次の週末まで自主練習をし、言われる言葉は「なんも変わらん。」「なんで戻るんな。」だった。

溜息、あきらめた表情、他者との扱いの違いが当時はとても苦しかった。


食事や自主練習を考えて行うようになった。

気づくと体脂肪率は13%ほどになり、走り込みは楽に感じられた。

ただ、自分にとっての『適度』の域は超えていたようだ。

練習の度、腿の前後がミシミシとちぎれるような音が聞こえていた。

無月経となり、両足脛骨内側はシンスプリント、疲労骨折手前の状態となっていた。

精神の状態も良い状態とは言えなかった。


帰り道の途中、下った先はT字路で車の通りも割とある。

部活動から離れる方法で思いついたことが大きなけがをすることだった。

毎日車の確認をすることなく勢いよく突っ込んだ。

今思うととても危険な行為を繰り返していた。

現在何事もなくトレーナーと管理栄養士として活動できているのは、運もある。


この頃には人と話す際も必死に笑う努力が始まっていた。

練習中・合宿中の過呼吸が増えた。

コーチにはその度「もういい。」とあきらめたような言い方をされていた。


ラケットのグリップの持ち方を変えろと言う指示があった。

高校2年生の途中で、グリップ角度を大幅に変え、球出しすらまともにできない日が続いた。

「変えなかったら先はない。」

言葉は少なかった。

部員たちへの球出しは申し訳ない気持ちになりながら、グリップの持ち方を変え続けた。

2週間ほどである程度思うところに打てるようになった。


部活動での最高学年となったタイミングから全体の練習量がより増えた。

中高一貫校となった学校では、課題やテスト、補講がしっかりとあった。

部活を終えて帰宅すると、眠さに勝てなかった。

深夜2時に起きて課題をすすめ、5時までに時間があればもう一度眠る。

朝5時に起き、自分の弁当を作る。

こんな生活を続けていたため、慢性的な睡眠不足だった。

なかなかの容量の悪さである。


食事・運動・休息のアンバランスが続き、身体に異変が起こっていたことは、今の私だから客観的に判断することができる。

当時はそれっぽい本を読んだ程度で、適切な情報は不足していた。


2年生の年越しのタイミングで本気で辞めることを決意していた。


結局辞めることはできなかった。

というよりはものごとの辞め方が分からなかった。

そこまでの人生で辞める・あきらめるということをあまりしてこなかったから、逃げることが『悪』であると決めつけている自分がいた。

その頃から試合に勝てるようになっていった。

練習も試合もどうでもいいという気持ちでこなしているというのが表現としては正しいと思う。

「なんで今勝ちだす?」

勝てても辞めてやると思いながらこなした。

おそらく私の場合は1つのことに目が向きすぎることで、気負っている部分があったことと、続けてきたことがつながるタイミングがその頃だったのだと思う。


結局辞められぬまま3年生になった。

最後の試合が近づく頃、コーチの声掛けが変わってきた。

全体の集合した場所で「今団体で一番使いたいのは愛実ちゃんじゃ。」という言葉をもらった。

これまで良いことを言われた記憶はほとんどなかったので、救われた気持ちになった。

ペアの関係やチーム全体の関係で、団体で使われることはなかったけれど、ほんの一言で報われたように感じた。


「全国でこれだけの成果を残しました!」

そんなことを言えるくらいであれば、美談として扱いやすいですが、そんなこともなく、まぁ何回か勝てるようにはなったかな…程度のものである。


引退後OBOG会に顔を出した際、当時のコーチから「これからは楽しいテニスをしろよ。」と声をかけられた。

どれほど楽しくなさそうに見えていたのだろう。


高校2年生の頃、それまではスポーツに関わる仕事をしたいと思っていた自分がわからなくなっていた。

「こんなに自分に動くよう言い聞かせて、やっと動いている身体でスポーツに関わる仕事ができるのだろうか。」

それでも、あきらめるということがよくわからず出てきた選択が、栄養と運動の両面から土台づくりのサポートができる人間になるというものだった。

高校生の部活動で、外部の指導者を迎え入れることは金銭的に難しい場合が多い。

況して、栄養の分野と運動の分野の2人なら尚更である。


「どちらも伝えられる人間が必要だ」と思った。


そのスタートラインに立つには、管理栄養士の資格とトレーナーの資格が必要であると考えた。


学校に行かなければなれない管理栄養士の資格を先に取得することにした。

管理栄養士は4年制大学の養成課程修了後に国家試験をパスするか、2年制短期大学・専門学校の養成課程修了後に実務経験3年を経て国家試験をパスするか、という選択を学校で聞いた。

※ほかにも資格取得のルートはあります。


その頃進路指導の先生から言われたことは大学卒の受験者の合格率は約70%、実務経験後の受験者の合格率は約7%というものだった。

金銭的な部分はもちろんあったが、それ以上に資格だけで現場経験の少ない状態は自分の中で違う感覚があったため、後者の2年制短期大学を選択した。

私の場合は実務経験3年を終えた後、トレーナーの学校に行くことを予定しており、現場経験をより早く積まざる負えない環境を作りたかった。


入学した学校は4年制大学と同じキャンパスにあり、たくさんの人と出会った。

軟式テニスはもうやらないつもりでいたが結局やってしまった。

そこでスポーツが改めて楽しいものだと思い出された。


栄養士の実務が始まった社会人生活でも、軟式テニスには助けられた。

誰も知らない土地で、栄養士の現場は近い年齢層の方はほぼ出会うことがなく、その土地の軟式テニスチームをいくつか渡り歩いた。

どこに行っても、とりあえず打てるようにはなっていたため、チームに入る心のハードルは低く、同年代の仲間もすぐにできた。


実務経験3年というものは、私にとって『苦』に感じることが思った以上に多かった。

自身がやっていきたいこととの差が、地に根を張り巡らせるための期間だとわかってはいるものの、心の摩擦となって積もっていった。


栄養士として1つの会社に勤め、そこから各事業所に配属される形式の会社だった。

配属された職場では14時間休みなく稼働していることが多く、たくさんの逃げる手段を考えた。

職場のロッカーは、責任者ポジションの人間に与えられる大きめのロッカーだったが、いつでも消えられるように常に空にしておいた。

部活動同様、結局逃げなかった。

配属先は3年間で3事業所、他事業所の応援要員で2事業所にあてられた。

就職活動の際、勤務先でより多くの経験ができるようにと考えていた。

配属数を見れば予定通りの経験を積ませていただけたと思う。


実務3年を終え、管理栄養士の国家試験勉強をしながら、トレーナーの専門学校に通い始めた。

専門学校に通いながら、現場経験が欲しいと思い、すぐスポーツジムでアルバイトを始めた。

このジムは学校卒業後も就職し、たくさんの挑戦をさせていただいた。

ここで初めてトレーナーの仕事と栄養士の仕事の両方を任せていただいた。


その後スポーツジムの立ち上げのコンサルティングや非常勤講師、セミナー講師、チームサポートなど様々な経験をさせていただいた。

アスリートも多く利用するジムで働かせていただいたこともある。


現在はパーソナルトレーニングジムを運営しながら、アプリの開発や旅館のプランなどのアドバイザーのような仕事もさせていただいている。


良かったことばかりかと言えばわからないけれど、1つ1つ誠実に向き合い、行動し、働いてきた。



私が辞めることなく続ける選択をできた理由は運も大きい。

自分で選択した道だからという理由以外に、本当にダメになったとき帰る場所があることは恵まれた環境だと心から思う。

私以上に私の夢を信じる友人、なんだかんだ自由を応援してくれる家族、挑戦を可能にする手助けをしてくれた同僚、やりたいことの先で出会った仲間、たくさんの人に恵まれた。



現在の私の知識や経験があれば全く違った部活動生活を送っていたことだろう。


ただ、私の場合は高校時代の経験が今の活動につながっている。


そのときそのときの自分が苦しい思いを超えてくれたから学んだこと、今につながることがたくさんある。

それはどんな人にもあるのではないだろうか。



小学生の頃男の子たちと外遊びばかりしていた。

高学年になった頃、女の子たちとも遊ぶようになった途端いじめにあった。

それが原因とは限らないがてんかんの発作で全身けいれんが起こり、救急車で運ばれた。

後の5年間薬を飲み続けた。

この経験から自分がされて悲しいことはしてはならないと深く思い刻むことができた。


中学生から初めた軟式テニスから楽しいだけ、根拠のない練習だけでは勝てないと知った。


高校生で心の不調、身体の不調、人への声のかけ方、人との関わり方、人生で一番考え、うまくいかないことを繰り返した。

その分人のことを考え、今の活動につながる経験をもらった。


短期大学でスポーツの楽しさ、自分のしたいことができる喜びを改めて感じた。


社会人になり、トレーナーと管理栄養士という道に関わる学び以外にも道徳的なこと、哲学的なこと、国内外のことなど視野を広げる学びができ始めた。

そして、やりたいことのために思いとは異なることをする期間が「必要ない」とは言えないことを体感した。



小さな小石でさえ何度もつまずき、自分の不甲斐なさを噛み締め、それでも歩み続けていたら、自分を好きだと思えるようになっていた。




私にとってはたらくとは、『不得意な自分に向き合うこと』のような気がしている。

高校生の頃の部活動がなければ、現在の働き方は考えもしなかった。


得意なことはもっとあっただろう。

好きなことはもっとあっただろう。

それでもやりたいことはトレーナーと管理栄養士だった。

できないことを続けていたら、できることが増えていた。

できないところから始めたものだから、伝えられるものもあるのだと思う。

というよりそうだと信じたい。



これまでの経験すべてが『はたらくこと』につながり、自分となっている。



スポーツに関わる全ての人が、それぞれの形で『喜び』につながるサポートを私自身が視野を広げ成長しながら続けていきたいと思う。







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